アフリカを知る際に欠かせない歴史
アフリカ大陸出身の友達がおられる方、アフリカに行ってみたい方、アフリカでビジネスをしたい方にとって、アフリカの歴史を知ることは非常に重要です。
彼らの生活の背景を知り、人生を知ることは、彼らを理解する際に重要になるからです。
この記事では、軽く説明していきます。
目次
- 奴隷時代
- 植民地時代
- ネオコロニアリズム
- 歴史から見る現在
奴隷時代(15世紀〜19世紀まで)
奴隷制度は、ヨーロッパ諸国により15世紀ごろに開始されました。
ヨーロッパがアフリカ大陸に進出し、黒人を船に大量に詰め込み、アメリカについてから鉱山などで働かせた。船では衛生環境が不十分であり、食事もまともに与えられず、足や手を鎖で繋がれたまま数十日を過ごすこととなりました。そのため、船で3分の1の奴隷は亡くなってしまったといいます。
奴隷を用いて、ヨーロッパ諸国は鉱山やプランテーションなどの資源を活用し、ヨーロッパ自国の利益に変えていった。これは国境を超えた資本主義の始まりと言っても良いでしょう。
アフリカの中では、「ヨーロッパ諸国の産業革命はアフリカの犠牲のもとで成り立っている」という意見があるのも確かです。
奴隷制廃止
1833年にギャリソンらがアメリカ反奴隷制協会を設立し、奴隷解放運動が始まりました。この運動は国論を二分した争いを呼び、その後に南北戦争が勃発します。南では奴隷継続を求め、北では奴隷制度の廃止を主張する大きな紛争となりました。南北戦争最中の1863年にリンカン大統領が奴隷解放宣言を発表し、大きな転換が図られました。 アメリカの奴隷制廃止は南北戦争終結後、1865年のアメリカ合衆国憲法修正13条で正式に奴隷制は廃止されました。
しかし、実質は「ヨーロッパと黒人奴隷」構造での奴隷制は無くなったように見えたが、現地「アメリカの黒人と黒人奴隷」という形での奴隷は残ることとなります。皮肉ですが、奴隷がアメリカで必要とされており、裕福な黒人が黒人奴隷を持つこともあったといいます。奴隷を服従させるために銃の貿易が盛んになったのも事実である。
身体的な搾取
奴隷時代に、アフリカの人々は明らかに身体的に搾取をされ、苦しめられてきた過去がアフリカ大陸出身の人々にはあったということです。
植民地時代(1880年代〜)
奴隷制廃止後に始まったのは、植民地主義制度です。
植民地においては、領土を伴う搾取構造が始まりました。ヨーロッパが第三世界から原料を輸入し、加工商品を第三世界へ輸出するというものです。
18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開され、1833年にイギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定されました。
奴隷制度廃止とともに、奴隷の売買を行っていた諸国は、奴隷の販路の一部を失ったばかりか、ヨーロッパ商品の再販による利益もなくなり、経済危機に直面しました。
こうした影響が及ぶのを先延ばしにできなかった地域では、やむなく「売れなくなった奴隷を、代わりの換金作物生産で使役すること」によって対応するようになりました。
こうして、イギリスが奴隷貿易の廃止を宣言した直後の数十年間に、換金作物が重視された時、「アフリカ内での奴隷使用」が起こります。
奴隷制度廃止後、アフリカは工業化を進めるヨーロッパにとってのヤシ油・ピーナッツ油・綿花などの原料供給地と工業製品市場の役割を果たすことになりました。
経済的な搾取
植民地時代において、身体的な搾取が黒人同士で続きつつも、のちにより大きな問題を引き起こすこととなる「経済的な搾取」を生み出しました。
ネオコロニアリズム
第二次世界大戦後にアフリカで独立運動が活発化し、「アフリカの年」と言われる1960年代に一気にアフリカの諸国が独立します。ここで、植民地植民地を持たないネオコロニアリズムの時代がやってきます。
ところが、実際には経済に関するあらゆる権利を帝国側が有していることで、アフリカ人の現地労働者を不当に搾取しているのが実態でした。
ガーナの初代大統領であったエンクルマが、新植民地主義のことを「アフリカの発展を阻止し、アフリカに貧困をもたらしている新植民地主義」と呼んでいたように、アフリカの資本をコントロールすることによって、植民地を持たない新植民地主義が生まれていました。
実数値で見ると、アフリカに対するイギリスの投資は約28億ドル、アメリカの投資は約8億4千万ドルで下。アメリカの海外投資に関する1957年の政府の調査は、単一かつ有利な統治領域は、南アフリカの鉱業と精錬業であることを示しており、その利益は、アフリカにおけるそれに相当するいかなる投資からの利益よりも高かったのです。そして、その高い利益は、ほとんどアフリカ人の労働力の安さによって補われていました。アメリカの『統計要覧』によれば、アメリカの坑夫は、平均1時間につき2.7ドルを得るが、それは南アフリカの坑夫が得る額の27倍だったといいます。
このように支配の体制は変われど、植民地主義の時代と新植民地主義の時代において、欧米帝国-被植民地の関係構造に実質的に変化はなかったのです。
歴史から見る現在
現在でも、西アフリカの通貨がフランスによって権限を握られていたり、政府がヨーロッパと癒着し市民を搾取したり、ヨーロッパとアフリカの搾取構造は見られます。
さらに注目すべきなのは、搾取する側もヨーロッパからアメリカへ、そして中国へと変化している構造です。ウガンダの空港が債務を返金できず、空港が中国の所有物になった疑いが起こったのも、この搾取する側の立場の変化を表しています。
今でもなおアフリカ系の人々によるBlack Lives Matterなどの訴えが起こっていたり、I can’t breathと訴えていたのに警察によって殺されてしまった事件があったり、差別行動がなくなっていないのが事実です。
奴隷時代から今の経済的搾取に続くまで、アフリカ系の人々を周辺化は時代を超えて続いているように思います。
これから私たちが取るべき行動は何なのか、アフリカを周辺化する近代国家の渦に乗っていた一種の加害者とも言える日本として何ができるのか、私たちは考えていく必要があるでしょう。
今後の記事では、より具体的にアフリカの歴史を遡り、現在に通じて言えることをまとめていきたいと思います。
アフリカが近代列強によって「周辺化」されていくまでの過程を知る上で、非常に重要な歴史の流れが奴隷時代→植民地時代→ネオコロニアリズムです。
その中で、アンドレ・グンダー・フランクやサミール・アミンによる「従属論」やイマニュエル・ウォーラステインによる「世界システム論」という論を挙げながら具体的に近代世界システムにどのようにアフリカが巻き込まれていったのかをご紹介します。